踏まれ続けた「石」の存在を忘れてはいけない
昨日のブログは新入社員を含む若手社員へのメッセージ。
今日は、彼ら彼女らを育てる側の人に対するメッセージ。(前に書いたブログのリバイバルですけどね。)
さて、最近こんな話をよく聞きます。
「生徒への指導は自信があるんだけど、アルバイト講師や社員に対しては上手くいかないんですよ」って。
う~ん、確かに、人材育成って一番難しいですもんね。
褒めて伸ばした方がいいのか、厳しくした方がいいのか。
やっぱりその両方のバランスが重要なのか。
そういうことよりも、とにかく懇切丁寧に教えることが必要なのか。
まあ、方法論はいろいろですよね。
こればっかりは、本当に正解のない領域です。
でも、この人材育成って、よくよく考えれば、生徒に対する指導も、講師や社員に対する指導も、人を育成するという意味では、根本的には同じはず。
それなのに、何故、生徒には上手くいくのに、アルバイト講師や社員だと上手くいかないんでしょうか?
それは、方法論云々の前に、指導する側の「心持ち」が違うからなんですよね。
恐らく、多くの塾の先生は、生徒に対しては、寛大な心をお持ちだと思います。
子ども達はまだまだ未熟な存在で、できないから塾に来ているんだ。
だから、優しく粘り強く教えてあげなければならない。
こんな感じでしょうか。
一方、アルバイト講師や社員に対してはどうでしょうか?
お金をもらっている立場なんだから、できてもらわなきゃ困る。
仮にできないのなら、自分で勉強するなり、研鑽するなりして、できるようになってよ。
ほんとに、もお~。
さしずめ、そんな思考じゃないでしょうかね。
更に、悪いことに、「自分がアルバイトの時はもっと責任感があった」とか、「自分が新入社員の時は、もっと積極的に仕事に取り組んでいた」とか、「自分がサラリーマン時代はもっと仕事をしていた」とか、やたらと自分と比較して、不満に感じちゃうんですよね。
でも、実は、皆、忘れているんです、昔の自分のことを。
誰でも最初はたいしてできる奴じゃなかったのに、自分の記憶の中では、「元々できる奴」になっているのです。
そう、だいたい昔の記憶って、自分に関しては美化されて残っているんですね(笑)。
まあ、それでも、今、指導する側にいる人は、昔から割とできる人材だったのでしょう。
恐らく、自分自身でいろいろと切り開いてきたという自負もあるでしょう。
だから、今の立場があるわけですからね。
でもね、きっと、あなたに踏まれ続けた「石」の存在がいるのです。
えっ?石?
そう、昨日のブログで書いた「石の上にも三年」。
これは、「つらくても辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられる」という意味ですが、、、
私はこれを、
「人が一人前になる(何かを成し遂げる)間、石となって踏まれ続けて、じっと耐えてくれた人がいる」
という解釈に変換することで、常に自分自身を戒める言葉として大切にしているのです。
事実、今の自分があるのは、自分ができなかった時代に(今もたいしてできるようにはなっていませんが(苦笑)…)、犠牲になった人や支えてくれた人がいたからなんです。
私がこの業界に入った時、謙遜でも何でもなく、本当に「できない奴」で、私の経験不足や指導不足で、救えなかった生徒達が一杯いました。
この子ども達は、ある意味、「できない私」の犠牲になった子達です。
今でも、彼らには申し訳ない気持ちになります。
そして、そんなできない私を見捨てることなく、私の成長を待ってくれた上司や仕事をサポートしてくれた先輩がいました。
つまり、この人たちが私にとっての「石」ですね。
この石の存在があったからこそ、今の私がいるのです。
真面目な話、私は「人材育成」には犠牲が付き物だと思っていて。
どんな人であろうと、人が成長する陰には犠牲になっている人が必ずいるのです。
だから、人材育成をしようと思えば、今度はあなた自身がその人の「石」になる覚悟が必要なんですね。
踏まれることにじっと耐えながら、その人に期待をかけて、褒めたり、叱ったり、懇切丁寧に指導したりして、それで、やっと、やっと、やっとこさ、人って育つのかなって気がするんです。
よく分かりませんけど(笑)。
まあ、いずれにしても、自分の下で踏まれ続けてくれた「石」の存在に気づくこともなく、感謝をすることもせず、そして、自分自身が「石」になる覚悟もない人は、人材育成はできないんじゃないでしょうか。
本日はこんなところで。
オーラのないマッチメーカーこと、株式会社WiShipの岡田でした